みよ通信

●ゅ●通信じゃないです。

ラブライブ!は「(良い意味で)ダサい」

こんにちは

もうすぐ蓮ノ空の1stライブツアーが始まる中、改めて、自分の考えをまとめておきたい、そんな内容のブログです。



なぜラブライブ!が好きか


ということについて、改めて考えてみようと思います。

ただ、前回のツキマカセの考察記事みたく、1万字も書く気力と体力がないため、ある1つの理由についてつらつらと綴ることとします。
その理由は、


ラブライブ!はダサい から好き。




というものです。




悪口か???? と思うかもしれませんが、それは誤解です。


私は、ラブライブ!が「(良い意味で)ダサい」と思っており、そこに自分が惹かれていることを自覚しています。

勿論、歌詞が好き、ストーリーが好き、キャラが可愛い、夕霧綴理ちゃん、など、好きな理由はいくらでもあるのですが、紙幅も足りないので。


とりあえず1つ、ということで、ラブライブ!のダサさ」について語っていこうと思います。
ただ、あくまで私の感性で語っているものであるため、他の人には当てはまらないかもしれません。そこだけお含みおきください。


結論を先に書きますと「嘘偽り、齟齬が無いありのままを見せているからこそ、ダサい(カッコ悪いけど眩しい)」ということになります。

「ダサい」とは?


そもそもダサい とは何か。


ダサい、とは、言い換えるとカッコ悪い、という意味であり、主に悪い意味で用いられます。
例えば、チェック柄のシャツを着ているオタクに対して用いられることもあれば、単なる誹謗中傷的なレッテル貼りとして用いられることもあります。

あれ、視界が霞んで、、、、、、、、




...ともあれ、ダサい は決して褒め言葉ではない というのが一般的な認識でしょう。


しかし、ポジティブな意味の「(良い意味で)ダサい」もあるのではないか。
ラブライブ!に触れて明確にそう思いました。
 


「(良い意味で)ダサい」は、個人的には、以下2つの意味を持っています。



〇 カッコ悪い
〇 眩しい


「ダサい」=「カッコ悪いけど眩しい」です。

なお、ここでの「眩しい」とは、「まともに見れないほど尊く、美しい」という意味です。





さて、キャラの行動や、曲、振りなど、「ダサい」と評される対象は様々ですが、
ここでは、ひとまず「曲」を引き合いに出してみます。


「Dream Believers」は「ダサい」曲じゃないでしょうか

と思うわけです。
例えば、サビ部分

行こうよ!
なんだってやっちゃえば楽しい
いまを頑張ることが楽しい
デコボコの道だって 大丈夫さ

行こうよ!
なんだってやっちゃうと決めて
いまを抱きしめたら
夢をえがいて ときめきながら繋がろう
Dream Believers I believe!

いや、(良い意味で)めちゃくちゃダサい、、、、



と個人的には思うわけで。
この理由、つまり、なぜ「(良い意味で)ダサい」と感じるかを自分なりに考えてみました。
すると、1つの答えが見えてきました。



嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せているから、です。





正確には、「そのキャラクターも、そのキャラクターが歌うその曲のその歌詞も、嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せているから、と私が認識できているから」です。
*1


ちなみに、時期的に蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの曲を取り上げましたが、一番ダサいと思う曲は、Aqoursの「MIRACLE WAVE」です。








「カッコ悪い」 について


まず、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」故に「カッコ悪い」となる理由について述べていきます。


一番肝心なところで個人的な思想になってしまうのですが、


「嘘をついていて、着飾っている」から「カッコいい」みたいなところないでしょうか? 
*2



例えば、「着飾る」という言葉は、美しい服を着て身なりを飾るという意味ですが、「着飾る」人は、一般的に「カッコいい」とされます。ファッションとかも、カッコいい服、コーデなどは存在しますし、メイクなどはその人をより美しく仕上げるものでしょう、知らんけど。
外見に限らず、内面も同じように「カッコいい」の要素は存在します。男性であれば、面白い、や、外向的、自分をもっている、などでしょうか。


このように、カッコよさ、美しさというものは、様々な「装い」を経て得られるものだと思います。

勿論、例外はあります。例えば、「装い」をする必要もなく元からそれらを具備している人です。元から顔が美形だったり、元から性格が外向的だったり。

しかし、全ての人がそうというわけではない(むしろ元から持ってる人は少数派でしょう)ため、「カッコいい」に成りたい人は「装い」を行って「カッコいい」へと至ります。見栄の要素もあるように思いますが。

「カッコいい」は「着飾る」ことで得られるということです。

ただし、他人が元から「カッコいい」のか、「着飾る」ことで「カッコいい」のかは中々判別がつきません。
*3




話を戻して、では、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」人はどうでしょうか。

齟齬が無い、は置いといて、
ほとんどの人々は、「着飾る」ことで「カッコいい」を得ているため、「着飾る」ことをしない人は、中々「カッコいい」には至れないでしょう。

「嘘をついていない」は中々に難しいです。外見(顔など)で「着飾る」ことをしないのは簡単ですが、発言や性格など目に見えない部分で「嘘をついていない」人はそうはいないのではないでしょうか、と私は思います。
なぜなら、そもそも私たちは、そういう世界に住む事ができないからです。


人と話す時、仕事をするとき、少なからず、言うべき内容を取捨選択し、時にはあえて嘘をつくこともあります。そうしたしがらみの中に生きているのが私たちです。
ただ、念のため再度言うと、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」と確実に言える可能性があるのは自分のみです。
(自分ですら確実に言えるか怪しいと思いますが。)

つまりは、「着飾らない=ありのままを見せている人は大概カッコ悪い」と勝手に思っています。



さて、ここまでは、ダサい=カッコ悪い「人」について述べてきましたが、
曲における「ダサい」について、Dream Believersの歌詞を引き合いに出して考えていきます。

行こうよ!
なんだってやっちゃえば楽しい
いまを頑張ることが楽しい
デコボコの道だって 大丈夫さ

行こうよ!
なんだってやっちゃうと決めて
いまを抱きしめたら
夢をえがいて ときめきながら繋がろう
Dream Believers I believe!

この歌詞は、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」と先述しました。
なぜそう言えるかは後で説明するので、ひとまず「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」ということは前提として考えていきます。

行こうよ!
なんだってやっちゃえば楽しい
いまを頑張ることが楽しい
デコボコの道だって 大丈夫さ

いったん、キャラが歌っているということは置いといて、歌詞をそのまま読んでみてください。












ダサくないですか?





例えば、もう少しカッコいい言い回しがあるだろ、とか。
(あえて結論を先取りすると、この言い回しだからこそ良いのですが。以下同じ。)


ダサい、素直すぎる。直球すぎる。





行こうよ!
なんだってやっちゃうと決めて
いまを抱きしめたら
夢をえがいて ときめきながら繋がろう
Dream Believers I believe!


「夢をえがいて」なんてとてもじゃないですが私は恥ずかしくて言えないです。
ダサすぎる、無垢すぎる、世の中はそんな綺麗じゃないだろと。








「カッコ悪いけど眩しい」について


さて、これまでは、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」=カッコ悪い
と述べてきました。

実際、「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ(ラブライブ!)を知らない人」=「第三者」は、歌詞を見て同じ感想を抱く人もいるのではないでしょうか。
「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ(ラブライブ!)を知らない人」=「第三者」は。



しかし、私たち「「蓮ノ空のこと好き好きクラブ」のみなさん」 は違うのではと思っています。
確かにダサいけど、どこか惹かれ、眩しく映るのではないでしょうか。

それはなぜか。
それは、私たちが「蓮ノ空のこと好き好きクラブ」であり、彼女たちが「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」ことを知っているからだと思います。







コンテクスト、という言葉があります。
意味としては、「前後の繋がり」であったり、「作り手と受け手(要は公式とオタク)の間の共有物」といったものです。
「第三者」とは、コンテクストを知らない人です。


コンテクストを知らない第三者からすると、Dream Believersのサビの歌詞は、表現がド直球すぎて格好悪いしダサい、などと思うかもしれません。
ただ、コンテクストを知っている私たち=「蓮ノ空のこと好き好きクラブ」、からは見える景色が違う気がします。



私たちは、「ラブライブ!の世界の常識、前提」、いわゆる「ラブライブ!あるある」を知っています。
具体的には、ラブライブ!の世界では、ありのままの姿を見せる事、嘘偽りがないこと が望ましいこととされています。


その世界では、嘘をついたり何か齟齬があると、ライブ本番で失敗したり、本番とまでは行かずとも練習で上手くいかなくなったり、仲が悪くなったりと悪い事が起きます。

例えば、蓮ノ空のストーリー第3話では、梢センパイの言いつけを破って独自に追加練習をしていた花帆が、本番前に怪我をしますね。



とはいえ、それは、フォーカスされることで、後々起こり得る良い事への繋がりとなり、最終的には、「自分をありのまま見せている、自分に嘘をつかない、齟齬の無い、キャラクターたちの姿を私たちは見る」ことになります。


第3話でも、最終的には、梢センパイと花帆は「本番前の怪我」を引き起こした原因について、互いに話し合い、謝った後、無事ステージに立ち、そのことを象徴するような、「スリーズブーケの(恐らく)伝統曲」である「Reflection in the mirror」を歌い切ります。



若干長くなりましたが、要は、ラブライブ!では、嘘や齟齬は望ましくないものとして描かれるものの、最終的にはそれらが無くなった純粋な、嘘偽りのない彼女たちの姿が描かれる」ということです。



このように、私たちは、キャラの素顔、葛藤、喜びも悲しみも、生き方も、キャラとの相互作用やそのキャラ自身の気づきも、そして、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている彼女たち」を知っています。
現実世界では、他人の内面までを細かく知ることは不可能ですが、アニメやストーリーからは、登場するキャラのほぼ全てを知ることができます。



だからこそ、彼女たちが歌うその歌詞は、「嘘偽り、齟齬が無い、ありのままを見せている」ということを知っています。



彼女たちは、等身大で、本気で、その歌詞を歌っている、そうした彼女たちの嘘偽りのないひたむきさやまっすぐさ、が、「眩しい」の正体であり、故に私は惹かれているのだと思います



「確かにダサい。でも、だからこそ、そんな真っすぐな姿がカッコいい」

と思わされます。




最後に

私が常日頃から思っていることとして、「その歌詞を歌うという事は、その歌詞を身に宿すということ」、「そのキャラクターがその曲のその歌詞を歌うということが重要」というものがあります。



言霊という言葉があるように、言った事は真実になったりしますよね。
個人的には、「その曲」の「その歌詞」を歌える状態の人はそうはいないと思います。なぜなら、その曲に見合っていないからです。私は、「いまを頑張ることが楽しい」なんてとてもじゃないですが正面切って言えないです。言えるように頑張ります、、
*4




しかし、蓮ノ空のメンバーは、そんな眩しい歌詞でも歌える、と私は認識しています。
だからこそ、眩しい歌詞を歌う姿に私は心を打たれるのでしょう。勿論、その歌詞がさらに「似合う」ように頑張る彼女たちの姿も眩しいです。






彼女たちの「純粋さ」、「眩しさ」、を意識しながら、彼女たちの「いま」を見届けていきたいと思います。

*1:ここでの嘘は、真実ではないという意味であり、そんな悪すぎる意味ではないです

*2:勿論例外もありますし、グラデーションもあります。後述するように、嘘をついていないのにカッコいい場合もあります。

*3:なお、余談ですが、「着飾る」という言葉は、場合によっては、「自分を背伸びして見せる」という意味で使われることもあります。さらに悪く言うと、「身の丈に合わない」という意味を暗に含みます。外見と直結するためこういう意味を持つのでしょうか。

*4:カバー曲などは別です